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2009年9月 4日 (金)

ファルーク

 インドには、「パールシー」と呼ばれるマイノリティのコミュニティがある。

 彼らは元々はペルシャ(現イラン)のゾロアスター教徒の末裔で、アラブ人発祥の宗教であるイスラム教がペルシャで勢力を広げた過程でイスラム教への改宗を拒み、1100年頃にインドに宗教的亡命をした人たちの、子孫である。

 「布教活動を行わないこと」を条件にインドへの移住を許された彼らはパールシー(ペルシャ人)と呼ばれ、マイノリティゆえの結束を固め、婚姻関係もパールシー同士の場合が多かったため、アラブ人との混血が進んだイランのアーリア人や、ドラヴィダ人など先住民との混血が顕著なインドのアーリア人社会よりも、結果的に純粋なアーリア人の血が保持されているといわれる。

 その後17世紀から18世紀にかけてインドのイギリス植民地化が進み、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。

 イギリスはインドを実質的に統治するにあたり、マイノリティであるパールシーを重用した。その理由は明確ではないが、少数派であるパールシーを重くおくことであえて他の民族との対立を煽り、分割統治をしやすくすること、そしてなにより、パールシーが「人種的に白人(アーリア人)」であることが、その理由としてあげられている。

 こうしてパールシーの地位は高められ、また貿易で財を成した彼らは、現在インドで少数派でありながら富裕層や政治的に影響力のある人たちが多い。たとえばインドの二大財閥のひとつ、ターターはパールシーの財閥である。またインドの初代首相ネルーの娘インディラ・ガンディー女史は、本人はヒンズー教徒だが、夫がパールシーである。

 

 ファルークは、1946年9月5日に当時イギリスの保護領だった東アフリカ・ザンジバル島ストーン・タウンで、イギリス政府の裁判所関係の仕事をしていたパールシーの父の長男として生まれた。植民地貿易で栄えた美しい街、ストーン・タウンは、現在世界遺産に登録されている。

 裕福で知的なパールシーのコミュニティに育ったファルーク少年は、5歳からピアノを習い始める。母によれば、カメラをむけられるといつも笑顔になる愛想のいい子どもだったという。
 レベルの高い教育を受けさせたいという両親の意向で、ファルークはボンベイ(現ムンバイ)のイギリス式パブリックスクールの寄宿学校で多感な少年時代を過ごした。

 その後、再びザンジバル島に戻ったファルークは、1964年1月、「ザンジバル革命」に巻き込まれる。

 イギリスに統治され、土地を持つ少数のアラブ人に支配され続けていた多数派のアフリカ系住民が決起し、ザンジバル人民共和国が誕生した。
 この時多くのアラブ人が虐殺されたが、イギリス人(この場合はファルークの一家も含まれる)には直接の被害はなかったといわれている。だがイギリス統治を脱却したザンジバルに、一家が留まる理由もなくなった。

 この時、ファルークの父、ボミ・バルサラにはふたつの選択肢があった。インドのパールシーのコミュニティに戻るか、長年その仕事を勤めていた宗主国イギリスに渡るか。

 これは推測だが、おそらくボミ・バルサラとその妻は、世界共通の心理である親心、つまりふたりの子どもたち、ファルークと妹カシミーラの将来のためを思い、イギリスに渡ることを決断したのだろう。ファルークは17歳でイギリス本国に「帰国」する。

 ロンドンのイーリング・アートカレッジに進んだファルークの当時の同級生は、後にファルークの両親について、こう語っている。

「とても穏やかで控え目な人たちだった。でも僕たちから見たらなんでもないようなことを、人種的な差別と受け取っているようだった」

 歴史に翻弄され続けたパールシーのバルサラ夫妻は、イギリスでひっそりと穏やかに暮らすことを望んでいた。

「でも…ひょっとしたら、本当に差別があったのかもしれない」

 くだんの同級生はそう続けた。

 

 ファルーク・バルサラは、その後、フレディ・マ-キュリーと呼ばれるようになる。

 長く政府関係の仕事を務め、また敬虔なゾロアスター教徒である生真面目なバルサラ夫妻にとって、ロックスターの息子の言動は、愛してはいても時には理解しがたいこともあった。
 世界的な成功をおさめたのち、両親のために新しい家をプレゼントしようとしたファルークに対して、彼らは首を振り、元の小さな家にひっそりと住み続けた。

 1991年11月24日にファルークが45歳で亡くなった時、バルサラ夫妻は息子の墓をイギリス国内に作らなかった。
 火葬されたファルークの遺骨が(注:ゾロアスター教は火を神聖なものとしてあがめているため、通常、火葬はしない)現在どこに眠っているのか、「公式には」不明となっている。フレディの元恋人であり長年の友人であるメアリー・オースティンが委託管理しているとも言われているが、遺族は公表していない。

 それはまるで、ずっと長い間手の届かない遠い所に行っていて、今やっと自分たちの元に戻ってきた小さな愛する息子ファルークを、もうこのまま静かに眠らせて欲しいと無言で懇願しているかのようだ。

 フレディのお墓がないことを、ロンドンに「フレディ・マーキュリー」のモニュメントがないことを、クイーンファン、フレディファンは残念に思っている。しかし同時に、このまれにみる流転の一家を、もう、そっとしておいてあげてもいいんじゃないか、という想いも持つ。
 墓などなくても、彼の生み出した音楽は永遠に残る。音楽そのものが、彼の永遠の記念碑なのだ。 それは世界中に、そこかしこに、あなたの隣にも、色あせることなく、ある。

 もう、それだけでいいのではないか、と。


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